2025年9月号
LIFE
[病める世相の心療内科]
by
遠山高史
(精神科医)
絵/浅野照子 (詩画家)
公共交通機関に乗れない人がかなりいる。昔から飛行機に乗れない人がいることは知られていたが、電車やバスに乗れないと訴える人も多い。会社まで車でしか通えない、公共交通機関を利用できないという診断書を書いてくれと言ってくる受診者もいる。なかには駅の階段の上り下りや、バス停で待つのが面倒だから、という仮病まがいの人もいるが、本当に乗れないと訴える人が結構な人数でいるのだ。
電車に乗ると急に動悸が起こり、冷や汗が出て、そのうち手足がしびれ、トイレに行きたくなり、心臓が止まるのではないかという不安に駆られるという。飛行機や電車、バスなどは、もともと自然界に存在しない。共通の特徴はいったん乗ると、一定時間は自分の意志では降りられない。こういう閉塞状況に置かれると、身体の自律神経が乱れいわゆるパニック発作が起こるのである。
こういう人たちでも自分の意志で動ける車の運転中はパニックを起こさない。渋滞したら逃げられない高速道路を避けていれば問題ない。しかし、鉄道は事故で止まったとしても長くて数時間で、飛行機は事故率で比較すれば自動車より格段に安全とわかってはいても、発作は起きてしまう。自然界で、逃げられない状況とは捕食動物に捕らえられた状態で、死を意味する。だから野生動物は罠にかかると必死で暴れ、挙句に1日程度で死んでしまう。恐怖を克服するためのホルモンが分泌されるが、それが逆に細胞を破壊する物質に変化し死を招くからである。同じ生き物である人間も、閉塞状況に置かれると自動的に身体が反応し、ストレスが長引けば脳を過敏にさせ、ついには細胞を破壊するホルモンが出てくる。
電車に乗っただけでパニックを起こす人は50~60歳以上の年齢層にはあまりいない。そもそも私のような年寄りは、その昔、今では考えられないほどひどい満員電車で通学通勤し、パニックしていたら生きてゆけなかった。
ところが、最近は、ラッシュの緩和された、平和な日本の電車でパニックを起こす人が増え、外来を訪れてくる。彼らの脳の危機管理センサーが、なぜか特に過敏なのだ。
発展途上国の列車の屋根にまで人が乗る、すし詰めの映像を見ても、彼らの脳が過敏なようには見えない。なぜ、私も途上国の人々も平気で電車に乗れるのであろうか。なぜ、この頃、公共交通機関を苦手とする日本人が増えているのであろうか。
私の幼少期や発展途上国の人々は貧しさの克服に必死で、電車など文明の利器はそこから抜け出すためのありがたい道具であったが、その頃よりはるかに快適な今時の交通機関で、脳の危機管理のシステムが反応するのは、すでに脳が過敏となっているからであろう。社会の閉塞がその要因ではないか。
閉塞が脳の過敏さを生むことは以前にも述べたことがある。社会全体が真贋不明の情報で覆われ、逃げられない。それはまるで、行く先も見えない電車である。不安から分泌される防御ホルモンが、逆に脳の危機管理システムを過敏にさせる。
昔の電車は高度経済社会を拡大し、途上国の列車も国の発展をけん引するものであった。いかに過密に見えても、その電車に閉塞感はない。クーラーのよく効いた、安全な日本の電車は、日本社会の閉塞感を予感させる。過敏となった人々の危機システムはパニック発作だけでなく、予想外の変化を社会にもたらすかもしれない。