『上司 豊田章男』トヨタらしさを取り戻す闘い/5012日の全記録 著者/藤井英樹 評者/福留朗裕
2025年12月号 連載 [BOOK Review]
2017年秋、私はトヨタ東京本社の一室で、当時三井住友銀行の会長だった故宮田孝一氏とともにある人物を待っていた。世界最大級の自動車メーカーの社長、そして、私の上司となる人を――。
入念な準備をして臨んだ面談だったが、始まれば全く予想外の展開。「工場や販売店を現地・現物で見てきてほしい」「新しい風を吹きこみ、組織を揺り動かしてほしい」――。トヨタの金融子会社TFS社長として外部登用した私に期待していることを、具体的なビジネスのアイデアも交えて述べた後に一言、「これ全部一年でやって」。「え?一年で?」、宮田氏と顔を見合わせるとニヤリ、「じゃ、二年で!」。私の新たな上司・豊田章男との出会いだった。本書は、章男氏の社長としての十四年間の軌跡が、専属スピーチライター藤井氏の視点で描かれている。章男社長は言葉のセンスが抜群だといつも思っていた。「もっといいクルマをつくろうよ」「年輪経営」「意志ある踊り場」など心に残るフレーズはいくつもある。トヨタらしさを追求し続ける章男社長が、それらの「世間に知られた」言葉にどんな思いを込めていたかが記されているが、日常会話の中でも「刺さる言葉」がどんどん出てくる。やがてそれはセンスだけではなく、章男社長が四六時中、誰よりもトヨタやクルマのことを考えているからだということもわかってきた。また、章男社長のスピーチも数多く登場する。藤井氏が章男社長の想いを伝えるため一切の妥協も許さず、直前まで原稿を推敲していることを知ってはいたが、ここまで壮絶だったとは。藤井氏が章男社長と紡いだ魂のメッセージは、トヨタ社員ならずとも心に刺さるはずだ。章男社長が藤井氏に投げかける言葉も、人間・豊田章男の優しくチャーミングな姿が垣間見えて印象的である。
創業来初の営業赤字となった直後に章男社長が就任してから、トヨタは業績や販売台数を伸ばしていくが、本書は決して成功物語ではない。章男社長は「平時における改革はこんなにも難しいのか」と苦悩を深めていく。極めつきは、コロナ禍における決算発表。業績報道を巡り、章男社長とメディアの間に距離ができたのは有名な話だが、藤井氏は、社内改革の集大成として発したメッセージの本意が伝わらなかった章男社長の失望をも分け合い、ある選択をする。私も当時、釈然としない想いを抱えていた記憶が蘇ってきた。
さて、私は、初面談での章男社長の言葉通り、TFSがある40カ国の現場を全て回った。現地を歩き、現場と語り合う中で、トヨタの競争力の源泉がサプライチェーンや販売店も含め世界中に浸透している共通の価値観やオペレーショナル・エクセレンスなどにあることを座学や報告からでなく、身体を通した実体験に基づいて肌で感じることができた。外からは見えなかったトヨタの現場力の強さ、モノづくりの矜持や凄みを目の当たりにしたのだ。
銀行帰任後、頭取となった私は迷わず「すべては現場から」をスローガンとして掲げた。私の経営の信条は、かなりの部分がトヨタと章男氏によって形成されたと思っている。
章男社長から聞いた言葉を記し、付箋だらけの日記をいまでも読み返す。本書を読んで、自分の発する言葉が、無意識のうちに章男社長にシンクロしていたことに改めて気付かされた。皆さんには、本書を通じて、社長であり、上司であり、一人の人間である豊田章男氏の言葉を感じて欲しい。きっと心に風が吹き、揺り動かされるはずだ。
■評者プロフィール
